東京バビロン Dance Project 『裸眼落花礼讃』
 
4月17日(火) 会場 「pit 北/区域」
19:00 開場/19:30 開演/前売・当日共2,000円
 
■予約・お問合せ|東京バビロン
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photo:Akihiko Iimura

Photo:Yuriko Okubo
第一部 『地獄の季節0417』
出演:相良ゆみ×飯田晃一
映像:万城目純/音楽:タナカジュリ
アフタートーク司会:宮田徹也
[日本近代美術思想史研究]
 
相良ゆみ
幼少よりバレエを習う。1988年よりNYを拠点とする Eiko and komaに影響を受け身体表現の模索を始め、
大野一雄舞踏研究所にて舞踏を学ぶ。
 
飯田晃一
舞踏家元藤燁子に師事(02)⇒藝術身体研究所設立(04)⇒ 原爆ドーム、NY・WTC、サイパン島で踊る(03-06)
⇒すし・魚友で「戦争をなくす宣言」(08)⇒シュガーライス・センター開始(09)⇒現在、『拘束身体論(仮)』執筆中。
 

 
舞踏とは朽ち果てることのない闘争である。伝説的な闘争は今日にまで至っている。
アフラマツダ/アーリマン、マーラ/ブッダ、デュオニソス/アポロン、アダム/イヴ、メフィストフェレス/キリスト、ジン/ムハンマド…。
光と影に敗者/勝者は存在せず、只闘争することのみにこそ、明かし得ない意味が存在する。我々もまた生きる上で、常に葛藤という名の闘争を繰り広げているのだ。
舞踏とは我々が普段意識することのない闘争=葛藤という一元論を霞のように明かしてくれる。相良ゆみと飯田晃一は葛藤を反復してきた。天国の存在しない【地獄の季節】という場所で。この闘争は一元論の為、数えることが出来ない。同時に始まりもなく終わりもないため、無窮運動であるにも関わらず我々の人生と同様に有限なのだ。
我々は何れ死ぬ。それでも闘争に終焉は存在しない。この葛藤に満ちた生き様に対して、舞踏などという小さな区分を与える必要があるのだろうか。それでも舞踏は存在してしまう。我々が生きることから逃れられないのと同様に。
 
宮田徹也
第二部 『Bursting into Oblivion (忘却の淵へ)
出演:Camille Mutel /カミーユ・ミューテル
照明:Matthieu Ferry
アフタートーク司会:竹重伸一
[舞踊批評]/佳手芙美(カデ フミ) [舞踊批評・翻訳・通訳]
 
私はモーリス・ブランショの『オルフェウスの眼差し』を読みながら『Bursting into Oblivion』について考え始めました。
創作過程を通して私はオルフェウスがエウリュディケに振り向いた瞬間、想像力を開放する空虚さが露呈した瞬間を深く探求しようとしました。
ダンサーはファンタジックな眼差しのオブジェとなり、自由自在に無限なるエロチックなイメージを作り出します。
しかしこの身体は何を見せているの でしょう?何も。何も見せてはいないのです。無です。
オリビエ・ウェーバーの手でダンサーの顔から創られたデスマスクを身につけています。
このマスクの微笑みは19世紀初めに創られた、セーヌ河で亡くなった 名もなき女性の有名なデスマスクの微笑みからインスパイアされています。
身体を人格に転換するのではありません。反対に身体から人間性を取り去り、名付けることのできない、正体不明な存在に変えてしまうのです。
死でも生でもない身体の神秘、一つのイマージュ、記録された忘却を保ちながら。
 
―Camille Mutel (訳・竹重伸一)
 
 
 

この企画の発端は、私のカミーユへの「今、日本に来ると世界のChaosが覗けるよ。」という無頼なメール(facebook)から始まりました。モーリス・ブランショの「文学空間」は、芸術を<虚無>において捉え還すことで、芸術行為の本源を暴いて見せた稀有な書物ですが、そこから触発されて創作されたカミーユの舞台は、0311以降の日本世界に響きあうものが必ずやあるでしょう。
またさらには、飯田・相良の「地獄の季節」の舞台では、揺れる日本列島の、桜散り敷く季節にふさわしい、古代からの新鮮な断層を見せて貰えたらと思っています。
 
岡村洋次郎(劇団阿彌,主宰/東京バビロン,企画プロデューサー)
制作:坂本康郎/主催:東京バビロン http://www.tokyobabylon.org