ダイジェスト版(YouTube)

Photo:Osamu Awane
2009年3月
 5日(木)・6日(金)・7日(土)…20:00 開演
 8日(日)…15:00 開演

※全席自由・40席限定・開場は開演の30分前です。
※チラシの地図をご持参の上お早めにご来場下さい。

 
会場:シアター・バビロンの流れのほとりにて  [アクセス]
※駐車スペースはございませんので、お車でのご来場はご遠慮下さい。
theatre TOKYO BABYLON
 Oji-Kamiya Station on Tokyo Metro Nanboku Line [access]
 
前売 2,500円 当日 3,000円 ペア 4,000円(要予約)
 
 

予約・お問合せ (東京バビロン)
http://www.tokyobabylon.org

 
 
■劇団阿彌 http://www.tokyobabylon.org/gekidan_ami.html
■東京バビロン http://www.tokyobabylon.org
■東京芸術見本市2009 参加作品 http://www.tpam.or.jp/
 
■代表・岡村のblog
 http://ameblo.jp/tokyobabylon/
■出演者・吉村のblog http://cid-d12433cb7ebf796c.spaces.live.com/blog/
 
 

 
 
CAST
 
村山俊介
 
吉村ひろの
 
菅原みなみ
 
岡村洋次郎
 
 
STAFF
 
台本・演出/岡村洋次郎
 
音楽・音響/落合敏行
 
照明/アイカワマサアキ
 
舞台監督/川俣勝人
 
舞台美術・仮面・版画/脇谷紘
 

衣装/櫻井基順
(MEME)
 
映像記録/たきしまひろよし
(PLASTIC RAINS)
 
スチール記録/阿波根治
(スタッフ・テス)
 
制作/坂本康郎
 
前回公演 2008年7月
荒野より呼ぶ声ありて
高校教師とその妻による
息子刺殺事件より

 
photo/Osamu Awane
劇団阿彌 GEKIDAN AMI
1994年結成。日本の古典である能楽をベースに現代劇の解体と再生を企図する舞台を上演。<ことばからだ>による現代の詩劇・仮面劇の可能性を追求。「消える舞台」を提唱。小劇場「
pit 北/区域」「シアター・バビロンの流れのほとりにて」を拠点として活動。
 
 
私の生存は、みんなのそれより良いだろうか?そうかも知れない。私には屋根があり、多くの人はそれを持たない。私はライ病やみではない、盲ではない、私には世界が見える。並外れた幸福だ。私には見える、その圏外では世界が無に等しいようなその白日が。誰が私からそれを奪えようか?そしてこの白日が消えるなら私もそれとともに消えるだろう。私を熱狂させる思考、確信だ。(モーリス・ブランショ 「白日の狂気」抜粋)
MANIFESTO 「消える舞台」
舞台というものが、台本作者や演出家や演者の自己表現であったり、自己実現の手段であることをやめない限り、演劇は永久に死んだままである。オーディエンス(観客)と舞台との関係に、その本質的な意味を恢復しなければならない。
 
演劇はかつて神事と結ばれていた。あるいは神々の言葉を聴くことができた。もしくは神々の不在に触れていた。そしてこれらは言語を絶することがらであった。舞台作品はけっして人間に所属してはいない。舞台はおのれが呼ぶものの現前において消滅する。
 
今日、舞台にたずさわる者は、神々の不在の不在という事態のなかで、宗教的なものではなく、聖なるものではなく、しかし言語を絶するものの現前に立ち会うために、作品とともに彼方に、無名の位置に退かなければならない。
 
私達はこの場所でこそ深淵に触れる。この真理の欠如している場所で、存在に遭遇するという危険に耐えなければならない。ここにしか舞台の復活はありえない。

 
 
 
岡村洋次郎(阿彌主宰,東京バビロン代表)
1948年生。竹内(敏晴)演劇研究所において身体性の恢復のワークを通して舞台創造の根源に触れる(約5年間)。その後、観世栄夫に師事(8年間)。セルフ・エクスプレッション(自己表現)の解体と演劇概念の根源的問い直しを行っている。具体的には実験的仮面劇等の試みがある。
上演によせて
ブランショの小説「死の宣告」は、ストーリーとしては、ある男が、死んだ愛する女性に呼び掛けをした所、一晩だけ甦ってきて交流をし、再び死んでゆくということになるが、しかしその読後に、やりきれない寂寥感とともに、なぜか人間の有限性を超えた理解不能なひそやかな救済感に襲われたのである。その不思議に動かされて、この困難なブランショの小説を舞台化したと云える。なお、ブランショの別の小説に「アミナダブ」があるがこちらの方が表現が直裁でないのと、何だかよくわからないということと、南無阿弥陀や阿彌陀仏に通ずる音でもあり、また聖なる書物が入っている櫃を運んだ人の名前でもあるということに興味が湧いて、それを分解するような形で採用させて貰った。

本公演を観世栄夫追悼公演とさせて戴いたのは、初演の際、演出の彼の『また再演したい。』という言葉があって、不肖の弟子ながら、その11年後にまことに遅ればせながらお応えしたいということであります。事情があって、その柩の中のお顔を拝して御見送りできなかった無念を越えて、この上演を謹んでその霊に捧げさせて戴きます。(岡村洋次郎)
 
 
 
A novel "L'Arret de mort" written by Maurice Blanchot tells a story about the woman who came back to life agein for called by a man, and made an exchange with the man, and finally died again. However, after I finished reading it, I felt both awful desolation, and ununderstandable quiet relief that trancend finiteness of human beings. Because of this strangeness I made this quie difficult challenge of making play from this novel.  -the president OKAMURA, Yojiro who studied under famos Noh actor KANZE, Hideo for 8 years.
 
AMI is the theatrical company which projects dismantlement and rebirth ofcontemporary theater by being founded on Noh, the classical theatrical method in japan. For example, they are inquiring how to collaborate with Noh players, how to make and use mask for extremely modern theater.
This performance is a theatrical arrangement of "L'Arret de mort" written by Maurice Blanchot whom directer Yojiro Okamura adores in his heart. When this performance took its place first time in 1997, the late Hideo Kanze, for the director and Hisa Uzawa, for the actor were invited, both of whom are the Noh player of Kanze family. Although this time the performance will be made by only member of AMI, we would like to make it with Noh player again, when we were invited from a theater in foreign country.
 
 
【アンケートより】
 
死とは何かなど、ふだん考えない事を考えるきっかけになった気がします。(24歳・女性)
 
 
こんな濃密な舞台はみたことがない。時間とシビアーに対峙しているので、空間も極めてタイトであり、終わりの方説明的にややなりすぎて冗長感を覚えた以外は、緊張感あふれる極めて印象的な舞台でした。皆さんの口跡のよさに、鮮やかな実存の切口を垣間見たようで素晴らしかったです。(60歳・男性)
 
「能」を感じさせる緩やかな、そして奥深い動き、そして劇中2、3回程しかない「触」=ふれるという行為、何に触れるのかを探りつつ、それを必死に考える自分がいた。ブランショの世界、まだ自分の中では霧の中のような世界だが・・・又、Corich「観てきた! 」に書かせて頂きます。(53歳・男性)
 
 
舞台を見ている間中、ずっと死と向き合っている感覚があり、その間からだのこわばりが続き、終わった後もすぐにはほどけない感じです。心の中がざわざわする舞台を久しぶりに見せて頂いた感じです。ありがとうございました。そしてお疲れ様でした。
 
 
能楽の身体というのでしょうか?演じる役者さんの体から目が離せなくなりました。幻想的な舞台の中に「彼女」が白無垢姿に見え、二人だけの結婚式の様に見えました。素晴らしい舞台ありがとうございました。
 
 
正直申し上げると、丁度その日、11時間半の立ち仕事で、極端な疲労があり、舞台中何度も舟をこぎました。(スミマセン)ただ、それでも感想をお書きしようと思ったのは、劇団員の方々の声のすばらしさです。次の日、パルコ劇場でアッカーマン演出の舞台を観ましたが、幕が上がり、人の声が聞こえたとたん、あ、こりゃ、いかん、と思ってしまった。その後も、それはしばらく続きました。いかにも彼らは素人の、普通の声。でも、貴劇団の人の声を聞いたとたん、あ、いい声だ、世界がはっきりする声だ、からだを変える声だと思いました。貴劇団の舞台を観たあとなので、他の舞台の声が気になったのだと思います。
能の動きという押さえた身体の中に、荒々しく波立つからだを感じることもありました。また、人がそこにいる、と言う感じはずいぶんしっかりあったと思います。(これは自分が作る舞台の一番の目的です)ただ、「死」について考える、と言うことはありませんでした。今となっては、せりふはほとんど覚えていません。声が素晴らしかったという感覚と、非常に美術的に美しかったのが幻想のように残っています。正直申し上げますと、能2時間ぶっ続けは難しいのではないでしょうか?だから狂言と並行して上演するのではないでしょうか?そんなことを考えました。私自身は、古典芸能(能・狂言・歌舞伎)全てに興味を持っています。竹内敏晴さんのレッスンにも相変わらず通っていて、声のことでは敏感になっているのでしょう。とにかく、お声がとても素敵だったので、感想を書かせて頂きました。
 
 
切れ間のないゆったりとした時間、ただただ、緊張も弛緩もない状態が永遠につづく。内にこもったり、かといって外にでることもない。人形のようでいて、人間でもない。ただ、あそこにはヒト、つまりは人間になりきれていないヒトがいる。我々は、自身の役割を演じたり、人間という自愛や道徳や情のある人をときに演じてみたりする。そんなことを気づかされる。非常に生々しい。生々しいというと、艶っぽかったり、野生的だったり、その人が出てしまったりということを想像してしまうが、そのどれとも違う。全く異質だ。ここは出演者や演出家が意図しているかは、わからないが、私には非常に嬉しい体験だった。5人という少ない人数で膝つき、おでこをつきあわせ、母親が子供の熱をみるような、そんな稽古をしているからだろうか・・・。内容やセリフのやりとりにおける死のことや、最初と終わりにある言葉の物語への誘いや現実と夢が錯綜するところよりも、私はその「生々しさ」だけしか覚えていない。新しい言葉の意味を発見し、解体される場へ立ち会えた。